宮本輝 幸福の条件の読後感想

幸福の条件は、自分の身近に住む人達のの秘密や意外な性癖、隠された人間関係が、近所の女性が殺されたことによって少しずつ顕われてくるというのが大まかな筋書きだが、それらは多分に現代社会のもつ複雑さや多様さ、それに他人に対する無関心さなど、私たち自身にも多く思い当たるような問題を鮮やかに描いている。それはもちろん小説なので、その内容は我々の周辺よりももっとドラマチックではあるが、この小説のなかの登場人物の一人くらいは、あぁこいうひといるなぁと誰もが思い当たるのではないだろうか。

自分の周りに住む人の自分の知らない人間関係というのは、いったんその一部を垣間見てしまうと、好奇心は不思議なくらい強い力で、人間に次の行動を、その噂の真偽や、そのひとの更なる秘密を見るための行動を、おこさせるのではないかとおもう。ひとつの殺人事件をとりまく登場人物たちの行動は、犯人が掴まらないことへの苛立ちや恐怖よりも、猜疑心による周囲への憶測と秘密への興味が、その原動力になっているように印象づけられた。人間とは元来とても噂の好きな生き物なのだろうと思う。噂のない社会やコミュニティーなんてまずありえないと断言してもいいかもしれない。勿論そういうものを好まないひともいるにはいるが、噂という不気味な情報体系から逃れるというのは不可能ではなかろうか。その関わり方の程度に違いはあれ、私たちは例外なく噂というものとの付き合いを強いられているのだ。

そしてその噂の特徴として、身近にいる人の噂というのは特に興味と強い憶測によって、現実以上の影響が本人に帰ってくるように見える。ひとつの情報を聞けば、私たちは自分の持っている情報と照らし合わせて、さらなる秘密の部分を知りたいと考えるだろう。もしそこで、みごとな情報の合致があれば、私たちは更にその話しを展開させていくであろう。そこに私たちの錯覚があるのではないかと私は感じた。現代社会におけるコミュニケーションはいかなる過去よりも多様化しており、私たちはある一人の人間においてどれだけのことをどれだけ正確に知っているのだろうか?身近にいる、顔を毎日あわせる、そういう理由だけで、ある噂を聞いたときに、私たちは手前勝手な想像を、まるで自分が本当にしっているように思いがちではなかろうか。改めて思いかえせば、私たちはどんなに親しい友人でも自分の知らない部分や過去がないということは先ずかんがえにくい。

情報の氾濫は世界をどんどん小さくしているといわれる。ところが、一番基軸になる部分、それは家族関係もふくめての自らの行動拠点となる部分、そこでの密度は逆に希薄になる一方のようにおもえる。先に話しをもどして、噂の信頼度というものがたいして高くないというのも、この核になる人間関係が非常に弱いからというのが最大の原因ではないかと考えられる。少し前の日本の農村だったら、噂というものの実態と現実というのはもっと違う形で現われていたのではないかと思う。この「知っているようで知らない人間」というのは不気味であるし、好奇心をそそるものであろう。ところが現実は逆で、「知らないのに知っていると思っている自分」というものが、周りの人間に勝手に錯覚を作り上げているという側面があると感じるのは間違いだろうか。

この基盤となる人間関係の弱さが様々な問題を起こしているというのが現実のような気がする。そしてそれを、なかなか認めたくないという反動が更にその現実に拍車をかけているのではないだろうか。家族の絆とか、友人との結束などが無くなったと言っているのではないが、それらがなくなり始め出すとき私たちは懸命に否定する。もしくは気づかないまま、自分の精神的な錯覚がそれらを以前のままのように思わせる。ところが、その人間関係を再び強く堅いものにするための何かを全くできないことが多い。それらは非常に簡単だったり、単純だったりなことがよくあるだろうが、私たちはそれがなかなかできない。そこに錯覚が生まれるのではなかろうか。ある日、それはある関係の崩壊という形によって、いきなり私たちの前に現われることもあるだろう。逆にその錯覚のなかで生きていると、噂というものが錯覚の中の現実に真実性を与えてしまうのだ。鏡の奥の世界のように現実は正反対であるかもしれないのに。 416日、00